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咲鬼庵(しょうきあん)−鬼は笑う−

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『酒呑(酒天)童子』の物語について 13 - 香取本(逸翁美術館蔵)

今回はトリビア的な内容になりますが、香取本で酒呑童子に捉えられ法華経を唱えていた幼子については、先行研究があります。それによると幼子は、平安時代中期の摂政、藤原道長(康保3年〈966-万寿4年〈1028〉)の息子であるとされています(1)。


道長と頼光との関係は近く、頼光のほうが18歳年上ではありましたが、道長を慕い、道長も頼光を「股肱の臣(信頼できる家臣)」として認めていたというのです(2)。さらに、道長は浄土教への信仰が厚く、晩年に出家して法成寺を創建するなど、仏教とのつながりも深いのです。つまり、この『大江山絵詞』の物語を書いた人物はこうした事情を知り、それを物語の中に忍ばせたものと考えられます。


一方、藤原保昌はというと、遠い祖先が延暦寺と関わりが深いのです。最澄が延暦寺の根本中堂を建てる前、比叡山には藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)(天武天皇9年〈680-天平9年〈737〉)が霊亀元年(715)に建てた禅院がありました。この藤原武智麻呂の子は、藤原南家の祖、藤原巨勢麻呂(ふじわらのこせまろ)で、巨勢麻呂の7代あとの直系の子孫が藤原保昌なのです。


藤原保昌は当時、名声を博した武士の一人であるのは間違いありません。しかし、この物語では頼光と四天王の渡辺綱の活躍に比して、なんとなく影の薄い印象です。とはいえ、延暦寺との関わりもあるうえ、のちに丹後守となり丹後地方との関わりも深く、和泉式部の夫ということもあって、大江山系の物語にとっては欠かせない登場人物なのでしょう。


『大江山絵詞』以降、酒呑童子の話は題名や舞台となる土地を、京都北部の大江山や滋賀県と岐阜県の県境の伊吹山などに移しつつ展開します。さらには、酒呑童子が鬼となる前に、越後で生まれ比叡山で稚児として暮らし酒に狂う、というスピンオフの話や絵巻もできるなど、様々に変化しながら中世を超え江戸末期まで語り継がれることになります。


注記

(1) (2)案田順子「香取本『大江山絵詞』私考」実践女子大学、實踐國文學 21, pp. 34-44, 1982


by showkian | 2019-11-26 16:41 | | Trackback | Comments(0)